【十朋亭とは】
 十朋亭は、山口市大殿大路110番地にあり、萬代家の離れとして建てられた。萬代家は代々醤油製造を業としていたが、三代 利兵衛英備の時、享和年間(1800年頃)に建てられ、明治以降に修復された箇所はあるものの大部分はそのままで、当時の民家建築の様式を見ることができる貴重な財産。


【十朋亭の名前】

 江戸中期以降の安定した世の中で、当時の文化人は見聞を広げるため全国を旅することが多くなり、大阪の儒学者篠崎小竹(しのざきしょうちく)も山口を来訪し、萬代家を宿とした。この機会に利兵衛は離れの建物の命名を小竹に依頼し、萬代家の商号が亀屋であることから、中国の易経の中から「十朋之亀」の語を取り出し、十朋亭と命名した。


【十朋亭を訪れたひとびと】
 幕末、長州藩主 毛利敬親(もうりたかちか)は、萩城の地が防長の中心を外れており、今後の政略に不便であることから、文久3年(1863)4月に、藩の政庁を山口へ移した。この結果、藩の重役や役人たちは山口へ住居を移し、政務をとることになった。この時、山口の民家を点定して、重役・役人たちの住居とした。十朋亭もその一つに指定された。
この時の萬代家の当主は、5代 利兵衛輔徳。まず重役の周布政之助がここで起居をはじめ、ついで桂小五郎・久坂玄瑞・坪井九右衛門・富永有隣・白根多助・来島又兵衛・村田蔵六・山縣有朋等の諸士が来亭、起居したと伝えられている。
 また、この頃、英国に留学中の井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)の二人は、英米仏蘭の四ヶ国連合艦隊が、先の下関での長州藩による仏船砲撃の報復として下関の長州藩の砲台を攻撃することを知り、元治元年(1864)6月、急ぎ帰国して山口の藩庁へ出頭し、外国との交戦を中止するよう進言した。当時の長州藩は難しい情勢にあり、世界の体勢と諸外国の実力を、身をもって知った両名にも藩論を変えるよう説得することは正に命がけの仕事だったといえる。この時、井上・伊藤の両名は、まず十朋亭に入り、旅装を解いて藩庁に向かったという(中原邦平著「井上伯伝」明治40年刊)。


【建物について】
 山口市教育委員会文化財保護課、秋田公立美術工芸短期大学の澤田亨教授のご協力により、十朋亭について調査が進められ、調査報告書によると「ほぼ徳川末期に建立され、後に数度の補修を経て今日に至った。山口に於いても非常に歴史上意義ある遺構の一つ」とある。
3代当主の利兵衛が財をなして建てたものだけに、200年以上たった現在でも大部分が残っているが、最初に離れとして建てられたものは座敷二間のみで、藩庁移転により役人の宿泊所とされた時に5代当主の利兵衛が建て増しをして土間や上がり框(かまち)ができたと考えられる。
明治初期に杉民治が十朋亭裏で塾を開き、青年達に学問を教えていたといわれるが、そこに何人かが居住もし、そのため現在展示場であるところを炊事場とし、五右衛門風呂と物置も設けられた。


■伊藤博文・井上馨寄書の大杓子

 伊藤博文自作の「厳島」の漢詩が書かれた大杓子
当時の手紙には「宮島の大杓子で、これは萬代へ差し上げる」とある。明治初年に施行された戸籍法から、伊藤博文の戸籍は萬代家の寄留扱いとしている。伊藤は本籍で発生するいろいろな手続きの代行を萬代家に頼んでいたようで、つながりの深さがうかがえる。
また、還暦祝いのために故郷にもどってきた井上馨は、その大杓子の上の部分に自分の漢詩を書き添えた。


■久坂玄瑞の手紙と湯呑
 禁門の変(蛤御門の変)で自害した久坂玄瑞が中村九郎、桂小五郎にあてた手紙と、十朋亭で久坂が自分用に使っていた湯呑茶碗が残っている。萬代氏によると、萬代家では久坂の評判は特に高く、久坂の常用湯呑茶碗だけが箱書きをされて保管されていたとか。
他にも萬代家で所蔵されている品は多数あるが、現在はほとんど山口歴史民俗資料館で保存されており、一般公開はされていない


【一般公開への経緯】
 昭和57年(1982)3月2日、山口市指定文化財として「史跡」に指定され、十朋亭とその向かいの風呂場・物置を改造して展示場とし、一般公開を始めた。以降、「山口市教育委員会 文化財保護課」「菜香亭、十朋亭をチョッと素敵に甦らせる会」「NPO法人 山口まちづくりセンター」「アートふる山口実行委員会」等の熱心な活動が続けられ、萬代氏が平成15年10月に山口市へ十朋亭の土地建物、所蔵品を寄附され、今に至っている。


萬代氏挨拶大路ロビー